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1964年東京オリンピック・知っておきたいエピソードはこちら!

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2020年の東京オリンピック開催に向けてオリンピックに関心を持つ人達も増えてきたのではないでしょうか?

実は56年前にも東京オリンピックが開かれたことは皆さんご存知ですね。

引用元:https://blog.goo.ne.jp/chaos1024/e/6dd863f3dc4547e...

ではその1964年の東京オリンピックはどんな感じだったのか?聖火ランナー、日本人の入場行進や有名なファンファーレ。超凄かった女子バレー東洋の魔女とは?

気になるエピソードをまとめてみましたので紹介していきます!

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聖火ランナーは?

最終聖火ランナーは当時19歳の「坂井義則(さかいよしのり)」です。東京オリンピックの陸上400メートル、1600メートルリレーの強化選手でした。

国内最初の聖火リレー地点には沖縄が選ばれました。聖火は日本全ての都道府県を回りました。聖火リレーの参加者はなんと計10万713人だったそうです。

オリンピック聖火とは、国際オリンピック委員会の権限の元、ギリシャのオリンピア遺跡で太陽を使い灯される火のことです。オリンピックの象徴ですね。

開会式当日に最終聖火リレーが行われたの青山・外苑を抜ける道で、東京を象徴する新たな動脈でした。

東京オリンピックの聖火最終ランナーだった坂井義則は、この出来事は何年過ぎてもつい昨日のように覚えていたそうです。

一糸乱れぬ日本人選手の入場行進

選手団は「日の丸カラー」の公式服装を着用して、日本人の美意識の高さが象徴された足並み揃った規律正しい入場行進をしました。

東京オリンピック当日の秋晴れにあった清々しく、真っ直ぐな日本人の心を表していて誇らしいものだと表されました。

しかし、海外からは「軍隊の様だ」と批判もされていたそうです。入場行進の練習をしていたのも日本だけだったそうです。

足並みもバッチリ揃い、帽子を抱える角度まで揃っていてすごいですよね。これを見ると、他の国の入場行進はなんてだらだらしているんだ、と感じたものです。

カッコいいファンファーレ

30秒ほどの短いファンファーレです。日本でもっとも有名なファンファーレのひとつとされています。

この背景を具体的に解説します。

 

東京オリンピックの開会式のために「オリンピック組織委員会」と「NHK」により、ファンファーレの公募が行なわれました。

1962年、当時「諏訪交響楽団」の指揮者を務めていた「今井光也」による作品が選出されました。

そして、演奏では「日本管楽器株式会社」が特別に製作した「ニッカン・ファンファーレ・トランペット」が使われました。

このファンファーレは今でも利用されています。それほど素晴らしいファンファーレであるからでしょう。

わずか8小節の作品で祝典音楽としては珍しく、短調でできています。
またこのファンファーレを「日本の陰旋法を用いた作品」と思う人も多いが、正しくはヘ調自然短音階で書かれています。

確かに日本古来の旋法である隠旋法を感じる作り方とはなかなか味わい深いものですね。

100円だった記念硬貨は今いくらの値段がついてる?

現在の販売価格は200~800円程度(状態による)の価値となっています。」

東京オリンピック記念硬貨には、1000円銀貨と100円銀貨が存在します。

実は東京オリンピック記念銀貨は、普通のお金として使うことができるんですよ。法律上問題がないそうです。勿体ないから普通は使わないですけどね。

・東京オリンピック記念硬貨の発行枚数は?

1000円硬貨が約1500万枚、100円硬貨が約8000万枚といわれています。

一時期は人気が過熱して、1970年代には20倍以上のプレミア(価値)がついたといわれています。

その後はブームの終焉、コレクターの減少でプレミア(価値)が下落してしまいました。

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すごい視聴率だった「東洋の魔女」

すごい視聴率とは66.8%(関東地区)です。

そとそも東洋の魔女(とうようのまじょ)とは何の事でしょうか?それは、1961年欧州遠征で22連勝もした「日紡貝塚女子バレーボールチーム」につけられたニックネームです。

ソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%、瞬間最高視聴率は95%にまで達したといわれています。

東京オリンピックでは同チームのメンバー主体で出場しました。5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な実力でした。そして、見事に金メダルを獲得しました。

・なんで東洋の魔女と呼ばれたの?

決勝戦の解説をしていたアメリカのコメンテーターが「オリエンタル・ウィッチ(東洋の魔女)」と連呼したのがキッカケだそうです。

・東洋の魔女の強さの秘密

東洋の魔女を指導していたのは「鬼の大松」と恐れられていた「大松博文(だいまつひろぶみ)」監督でした。

徹底的なスパルタ指導で有名で、当時のチーム選手達は深夜まで練習に励んでいたそうです。
中には朝方までの練習も珍しくなかったそうで、なんと早朝5時まで練習していた時もあったと言われています。

大松監督の名言で「相手が10練習してるならこっちは15練習しろ!」がありますが、このスパルタトレーニングに音を上げることなくついてこれた選手達が東京オリンピックで素晴らしい結果を残しました。

・バレーボールブームが起きる

東京オリンピックの女子バレー金メダル獲得に便乗して日本では空前のバレーボール・ブームが起こりました。

テレビでは『サインはV』、漫画では『アタックNo.1』などの作品が生まれました。

まとめ

・最終聖火ランナーは当時19歳の「坂井義則(さかいよしのり)」。陸上400メートル、1600メートルリレーの強化選手

・日本の入場行進は「日の丸カラー」の公式服装を着用し、日本人の美意識の高さが象徴された足並み揃った規律正しい行進を見せた

・「諏訪交響楽団」の指揮者「今井光也」による日本でもっとも有名なファンファーレ。今でも利用されています

・100円だった記念硬貨は現在200~800円程度の価値となっている

・東洋の魔女こと「日紡貝塚女子バレーボールチーム」の決勝戦は視聴率66.8%!

1964年東京オリンピックは選手団の熱意や気迫を強く感じました。バレーボールを筆頭に日本のスポーツが発展するきっかけになったはずですね。

2020年の東京オリンピックも日本全国で盛り上がることは間違いなしですね!

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